塩の歴史

塩の行進

1930年に、マハトマ・ガンジーがイギリス植民地政府による塩の専売に抗議し、約380kmを行進した史実です。

非暴力・不服従といった言葉も歴史の授業で学びました。思い出された方も多いのではないでしょうか。

ここで「塩の専売」について、もう少し掘り下げたいと思います。

塩の専売

塩は、人間の体に大切な働きをしています。塩がないと人は生きていけない。とも言えます。(塩の働き
そんな大事な塩ですので、安定した価格で市場に供給する必要がありました。また、国の財政収入を確保する目的もあり、1905年塩の専売制度が実施されました。

※専売・・・国あるいはその他の公権力が、なんらかの行政的な目的をもって、特定物品の生産あるいは販売を独占することをいう。(引用:コトバンク)

生活必需品でもある塩を日露戦争など軍費調達という収益主義的な制度として出発した塩の専売制度は、1919年頃には、国民生活に苦痛を与える生活税的な意味合いがあると廃止論も出ていました。

第二次世界大戦のころ日本では、塩は割り当て配給制でした。配給されていたことからも塩の大切さがよくわかります。

戦後の困窮期を乗り越えた日本では、塩専売事業は日本専売公社に引き継がれました。塩の生産技術も改良や整備が進められ、生産量が飛躍的に増加したのは1960年頃です。

しかし、海外からの塩の輸入量が増える中で、国内の塩はコストが高く製塩の見直しが迫られました。そうした状況の中、イオン膜技術が実用可能となり、製塩工程全体が装置産業化される大改革となりました。

海の塩が食べられない?!

1971年にできた法律で「塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法」があります。

工業化が進む日本で、塩の中のナトリウムを使って作られるソーダは、石けんやガラス、紙、化学繊維をつくるのに必要でした。塩素は、塩化ビニールや光ファイバー、ジェット燃料をつくるのに欠かせません。多くの塩が工業用に必要になりました。

塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法により、昔ながらの塩田による塩づくりができなくなり、イオン交換法以外の塩はつくってはいけないことになりました。当時、全国に20くらいの塩田があったそうですが、すべて廃止になりコンビナートに生まれ変わりました。

イオン交換法で作られた塩は、真っ白でさらさらしています。塩化ナトリウムが99%以上の純度が高いものです。

当初作られていた塩は、塩化ナトリウムの純度が74%でした。のこりの26%は、ミネラルと呼ばれる、カリウム、カルシウム、マグネシウム、リン、鉄、亜鉛、モリブデン、セレンでした。

塩化ナトリウムが99%以上という塩は、化学的に作られた塩です。純度が高いと工業用に最適ですが、食用も工業用も同じように作られていた。というのは、気持ちがいいものではありません。

繰り返しますが、本来作られていた「塩」は、塩化ナトリウムが74%、ナトリウム以外のミネラルが26%ありました。本来の塩は、そういうものです。なのに、多くの人が知っている塩は、化学的に作られた(イオン交換法)塩もどきだったのです。

このイオン交換法で作られた塩しか、食べられなかった期間は、1971年から塩の専売制が廃止される1997年まで、26年間も続きました。1971年から1977年の間に生まれた子どもたちは、成人するまで、イオン交換法で作られた塩しか口にしていなかったことになります。

工業用も食用も同じ塩だった時代が26年間あったという事実は、見方によっては、非常に恐ろしく感じます。

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